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松浦
鷹島神崎遺跡

鷹島神崎遺跡

 

平成24年3月27日、文部科学省は元の軍船や遺物が出土した松浦市鷹島町神崎免の沖合いの鷹島海底遺跡内海域を、日本で初めての海底遺跡として日本発となる国史跡「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」に指定しました。

蒙古襲来に関わる古戦場

2度にわたる蒙古襲来(文永の役・弘安の役)は、鎌倉幕府を崩壊に導いた遠因ともいわれており、九州北部を戦場に両軍熾烈な戦いが繰り広げられました。
世界一の大帝国を築いた元国の大軍は、松浦市鷹島沖で戦いに敗れ、4千4百隻もの船と14万人の兵士の大多数が海へ消えたと伝えられています。

1回目の遠征である文永の役(1274年)では、元軍は対馬、壱岐に侵攻し島民を虐殺。略奪や暴力の限りを尽くし、博多へ攻め入りました。元軍は、日本軍に大きな打撃を与えましたが一方で激しい抵抗にあい、自軍の疲弊もあり戦いをやめ突然撤退しました。
この戦いで松浦は「松浦党数百打たれ、或いは生け捕られしかば寄せたる浦々の百姓壱岐対馬の如く」と惨状を極めました。

7年後、元は、14万人の大軍を編成し再び日本を攻め(弘安の役)ますが、文永の役以来防備を固めた日本軍に苦戦を強いられます。
そして7月30日夜。元軍は、鷹島沖の伊万里湾海域で暴風によって一夜にして全滅したといわれています。

なぜ14万もの大軍がこの海で一日のうちに壊滅したのでしょうか。

「台風なみの暴風雨が押しよせ、海の戦いに慣れない元軍が自滅した」
「寄せ集めの軍隊で統制がとれていなかった」
「高麗や南宋など支配下においた国の兵士の士気が下がっていた」

など、諸説ありますが、水際で防戦奮闘した松浦党の活躍があったことはあまり知られていません。

蒙古襲来の経路

蒙古襲来の経路

鷹島は、伊万里湾の入口に浮かぶ面積17㎢の小さな離島です。壱岐からは直線距離で30㎞足らず、晴れた日にはその島影をくっきりと望むことができるなど、太古より大陸と日本を結ぶ海上ルート上に位置しています。

元軍は、5月3日に高麗の合浦を東路軍が先発します。しかし博多に容易に上陸できず、いったん平戸沖に引き返した後、江南軍10万人の大軍との合流を待っていよいよ7月27日に鷹島沖へと船を進めました。
小さな島をぐるりと4千隻超の軍船が取り囲んだのです。
文永の役で島民がほぼ全滅した鷹島に再度立ち寄ったのは、補給や軍馬の休養などの目的と、この地で松浦水軍で名高い松浦党を一気に叩き潰す算段だったのではないかと考えられます。

7月30日の嵐の前の3日間、鷹島沖では松浦党が夜襲を仕掛けるなど果敢に抗戦。元軍に打撃を与えています。
そこへ狭い海域をびっしりと埋めた軍船を襲う暴風雨、船は砕け転覆し、鷹島や星鹿へ上陸した者はことごとく掃討されました。
2度の元寇により鷹島は、「無人の島と化し、家は兵火にかかり消失し死屍は島いっぱい、牛馬は殺され鬼哭の島となり住む人とてなくなった」といわれています。

凄絶な戦闘を物語る元寇史跡が鷹島はじめ松浦市に今も残っています。

 

 

海底遺跡として日本発の国史跡 鷹島神崎遺跡

この海域は、弘安の役(1281年)の際に、元軍の船団が暴風雨により沈没した地点として伝えられ、鷹島の南岸では以前から壺類や刀剣、碇石などが地元の漁師などによって水中から引き揚げられていました。
昭和55年から開始された発掘調査では、船体の一部や、陶磁器類、漆製品、矢束、刀剣、冑などの武器や武具類などが多量に出土し、これらの出土品を分析した結果、弘安の役で沈没した元軍のものである可能性が高まりました。

この遺跡から出土した様々な遺物は、これまで文献や絵画などでしか知ることができなかった蒙古襲来の様相を具体的に明らかにするとともに、当時の軍事や外交などを理解する上で極めて重要な遺跡として評価されています。

平成23年秋、鷹島海底遺跡を調査していた琉球大学の研究グループは、神崎免米ノ内鼻の沖合い約200m、水深20mから25mの海底を約1m掘り下げたところから元の軍船を発見しました。

この調査で見つかったのは、船底の背骨にあたる竜骨(キール)と呼ばれる部分で、竜骨の大きさは、幅約50㎝、長さ約12mで、これから推定される船の長さは20m級と見られています。

鷹島海底遺跡調査風景

鷹島海底遺跡調査風景

平成23年度調査 元の軍船の竜骨(キール)と外板の検出状況

平成23年度調査 元の軍船の竜骨(キール)と外板の検出状況※写真提供-琉球大学考古学研究室

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水中考古学

 

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