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松浦
歴史と文化
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2012年12月20日
志佐壱岐守純高公の墓
純高公は、平戸松浦26代鎮信公とともに朝鮮に出陣し、天正20年(1592)に20歳で戦死されています。公の遺骸は酒漬にされて送られ、この地に葬られました。
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2012年12月20日
今宮神社
松浦党党祖、久(ひさし)公を祀る神社で、寛文(かんぶん)9年(1669)宗家松浦20代信貞公が建立されました。鳥居も信貞公が延宝(えんぽう)5年(1677)に寄進されたものです。
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2012年12月20日
宗家松浦丹後守家累代の墓(旧宛陵寺跡)
久公の墓の基礎石をはじめ、累代の供養塔が20余基と歴代和尚の墓が十余基現存しており、宗家松浦家の菩提所になっています。
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2012年12月20日
今福神社(歳の宮)
応徳(おうとく)元年(1084)、松浦党党祖・久(ひさし)公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀(たが)の大明神の分霊を勧請(かんしょう)し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます。その折、村人が梶の葉の上に3個の餅を乗せて久公に捧げたことから、松浦家は梶の葉の家紋を使用するようになったと伝わっています。
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2012年12月20日
宗家松浦13代 丹後守盛公の墓
応仁元年(1467)没。遺体は東漸寺(とうぜんじ)〈佐世保市〉に埋葬されています。
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2012年12月20日
宗家松浦10代 丹後守勝公の墓
梶谷城主として西有田の唐船城(とうせんじょう)を併有し、貿易や文化の発展に努力されました。
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2012年12月20日
松山田の六地蔵塔
塔身に3段の尊像が各段11仏、合わせて33仏刻まれています。中断には、卍を胸につけた珍しい尊像があります。造られた年代は不明ですが、天正年間(1573~1591)のものと考えられます。
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2012年12月20日
松園休己の供養塔
松園一族のひとり、松園休己夫妻の供養塔です。天文11年(1542)、平戸、志佐連合軍が今福の梶谷城を攻めたとき、松園氏は今福方に味方したために連合軍に攻められ、一族滅亡しました。
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2012年12月20日
松園屋敷跡
代々白井や調川を領した地頭、松園氏の屋敷跡で、城と屋敷を合わせ持つ平山城の好例です。松園氏は天文11年(1542)、平戸、志佐連合軍に攻められ、松山田の牟田の池周辺で一族討死しました。
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2012年12月20日
護舜寺
秀吉の朝鮮出兵の際に、平戸松浦26代鎮信(しげのぶ)公に従って朝鮮に渡った正守(しょうしゅ)大和尚は、帰国後も敵味方の区別なく戦死者の冥福を祈りました。その志に感銘を受けた鎮信公の遺命により、元和(げんな)3年(1617)に護舜寺が建立されました。