その他
2012年12月20日
塔身に3段の尊像が各段11仏、合わせて33仏刻まれています。中断には、卍を胸につけた珍しい尊像があります。造られた年代は不明ですが、天正年間(1573~1591)のものと考えられます。
2012年12月20日
代々白井や調川を領した地頭、松園氏の屋敷跡で、城と屋敷を合わせ持つ平山城の好例です。松園氏は天文11年(1542)、平戸、志佐連合軍に攻められ、松山田の牟田の池周辺で一族討死しました。
2012年12月20日
源介は直谷城主志佐純正の家老で、直谷城が永禄7年(1564)に平戸から攻められた際に、幼い城主の子を背負い、相神浦(あいのこうら)〈佐世保相浦〉に落ち延びました。その後、平戸城主の娘婿であった直谷城主の弟・純意(すみもと)を志佐城主にするため、平戸方のいいなりになる、純意の名で白浜館は攻められ、天正13年(1585)、源介は上意討となりました。