数々の遺物が引き揚げられていた鷹島南岸の海域は、「考古学に関する基礎的研究」の実験調査場所に選ばれ昭和55年から3年間調査が行われました。
この調査で海底から鉄剣、石弾、陶磁器などが発見され、元船の沈没場所であることが確認されました。
鷹島南岸から沖合 200mまでの範囲は、「鷹島海底遺跡」として広く知られるようになり、鷹島は日本の水中考古学研究調査対象として注目されています。
鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)
平成23年10月、鷹島海底遺跡の調査中に元軍船が見つかりました。発見されたのは船底の竜骨(キール)といわれる部分で大きさは幅約50㎝、長さ約12m。これにより推定される船体の大きさは25m超と考えられ、元寇史実の解明はもとより当時の造船技術の情報を得る貴重な発見となりました。船体の発見を受け、鷹島神崎免の南岸海域は平成24年3月、「鷹島神崎遺跡」として国史跡の指定を受けました。
発見された遺物
大椗(おおいかり)
平成6年の神崎港発掘調査で発見されました。
水深20~22mの海底で木製の椗に椗石が装着された状態で見つかりました。
大碇は、椗の本体部分が2.74m残っており、全長は約7mと推定されています。
椗の大きさから、元軍の戦艦の全長は約40m級であったと考えられます。
椗は、脱塩の処理などを施した後、鷹島埋蔵文化財センターで展示公開されています。
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てつはう
直径約15㎝の丸い陶製の炸裂弾で、元軍の武器として使われました。
鉄片や陶磁器片が中に詰められており、投石機を使って飛ばしていたものと思われます。爆発音と光、煙などで鎌倉武士たちはだじろいだといわれていますが、実験により殺傷能力があったことがわかっています。
管軍総把印(かんぐんそうはいん)
昭和49年、神﨑免の海岸で貝掘りをしていた島民が発見しました。印は、銅製で大きさ6.5㎝四方、厚さ1.5㎝、重さ726g。印面には元の国字であるパスパ文字で「〇軍〇把印」と刻まれ、左側には漢字で「中書礼部至元十四年九月造」とあります。総把とは、元軍の下士官クラスを指しいています。
唐壺、蒙古剣(からつぼ・もうこけん)
鷹島では、古来より網にかかるなどして引き揚げられた遺物が多く存在しています。一見タコ壺に似た形の陶器は「唐壺」と呼ばれ、紐を通して穀物や水などを入れるのに用いられたと思われます。
蒙古剣は、中国の青龍刀とは違い双刃の直刀で、元兵が使っていたものと考えられます。
石臼(いしうす)
鷹島南岸の海域からは石臼も引き揚げられています。元軍は弘安の役の際、日本を制圧後、実際に占領するために生活用具や農機具などを船に積んでいました。石臼もそうした積み荷のひとつであろうと考えられます。