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旧金泉寺の銅造如来坐像
高麗(こうらい)前期(918~1100)の渡来仏で、松浦と高麗の交流を示す貴重な文化遺産です。
高麗(こうらい)前期(918~1100)の渡来仏で、松浦と高麗の交流を示す貴重な文化遺産です。
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刈萱城跡(城山)
山頂には本丸の輪郭が残っており、また一帯を見晴らす展望が楽しめます。
山頂には本丸の輪郭が残っており、また一帯を見晴らす展望が楽しめます。
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妙音寺金銅観音坐像(渡来仏)
平戸瑞雲寺の末寺で明治の廃仏毀釈により廃寺になった牟田の慈眼寺より本寺に移された仏像です
平戸瑞雲寺の末寺で明治の廃仏毀釈により廃寺になった牟田の慈眼寺より本寺に移された仏像です
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慈光寺の金銅阿弥陀如来坐像
昭和58年(1983)、境内にある池の大掃除の際に発見されました。
昭和58年(1983)、境内にある池の大掃除の際に発見されました。
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お南様(墓所)
平戸松浦26代鎮信公に従って朝鮮に出兵した、志佐純高公の室で、通称「お南様」と呼ばれた方の墓所です。
平戸松浦26代鎮信公に従って朝鮮に出兵した、志佐純高公の室で、通称「お南様」と呼ばれた方の墓所です。
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上人様(じょうにんさま)
この地方を大干ばつが襲ったとき、村人たちは餓死寸前まで追い込まれました。その様子を見た通りがかりの上人様が、自分を犠牲にして生き埋めとなり、土中で読経を続け、その声が途絶えるとともに、大粒の雨が降ったということです。
この地方を大干ばつが襲ったとき、村人たちは餓死寸前まで追い込まれました。その様子を見た通りがかりの上人様が、自分を犠牲にして生き埋めとなり、土中で読経を続け、その声が途絶えるとともに、大粒の雨が降ったということです。
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白浜源介(助)の墓
源介は直谷城主志佐純正の家老で、直谷城が永禄7年(1564)に平戸から攻められた際に、幼い城主の子を背負い、相神浦(あいのこうら)〈佐世保相浦〉に落ち延びました。その後、平戸城主の娘婿であった直谷城主の弟・純意(すみもと)を志佐城主にするため、平戸方のいいなりになる、純意の名で白浜館は攻められ、天正13年(1585)、源介は上意討となりました。
源介は直谷城主志佐純正の家老で、直谷城が永禄7年(1564)に平戸から攻められた際に、幼い城主の子を背負い、相神浦(あいのこうら)〈佐世保相浦〉に落ち延びました。その後、平戸城主の娘婿であった直谷城主の弟・純意(すみもと)を志佐城主にするため、平戸方のいいなりになる、純意の名で白浜館は攻められ、天正13年(1585)、源介は上意討となりました。
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銀杏ヶ浦の五輪塔
建治年間(1275~1278)にこの地を領した宗家松浦3代清公の子を祀ったものとも考えられます。
建治年間(1275~1278)にこの地を領した宗家松浦3代清公の子を祀ったものとも考えられます。
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護舜寺
秀吉の朝鮮出兵の際に、平戸松浦26代鎮信(しげのぶ)公に従って朝鮮に渡った正守(しょうしゅ)大和尚は、帰国後も敵味方の区別なく戦死者の冥福を祈りました。その志に感銘を受けた鎮信公の遺命により、元和(げんな)3年(1617)に護舜寺が建立されました。
秀吉の朝鮮出兵の際に、平戸松浦26代鎮信(しげのぶ)公に従って朝鮮に渡った正守(しょうしゅ)大和尚は、帰国後も敵味方の区別なく戦死者の冥福を祈りました。その志に感銘を受けた鎮信公の遺命により、元和(げんな)3年(1617)に護舜寺が建立されました。
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松園屋敷跡
代々白井や調川を領した地頭、松園氏の屋敷跡で、城と屋敷を合わせ持つ平山城の好例です。松園氏は天文11年(1542)、平戸、志佐連合軍に攻められ、松山田の牟田の池周辺で一族討死しました。
代々白井や調川を領した地頭、松園氏の屋敷跡で、城と屋敷を合わせ持つ平山城の好例です。松園氏は天文11年(1542)、平戸、志佐連合軍に攻められ、松山田の牟田の池周辺で一族討死しました。
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松園休己の供養塔
松園一族のひとり、松園休己夫妻の供養塔です。天文11年(1542)、平戸、志佐連合軍が今福の梶谷城を攻めたとき、松園氏は今福方に味方したために連合軍に攻められ、一族滅亡しました。
松園一族のひとり、松園休己夫妻の供養塔です。天文11年(1542)、平戸、志佐連合軍が今福の梶谷城を攻めたとき、松園氏は今福方に味方したために連合軍に攻められ、一族滅亡しました。
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松山田の六地蔵塔
塔身に3段の尊像が各段11仏、合わせて33仏刻まれています。中断には、卍を胸につけた珍しい尊像があります。造られた年代は不明ですが、天正年間(1573~1591)のものと考えられます。
塔身に3段の尊像が各段11仏、合わせて33仏刻まれています。中断には、卍を胸につけた珍しい尊像があります。造られた年代は不明ですが、天正年間(1573~1591)のものと考えられます。
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宗家松浦10代 丹後守勝公の墓
梶谷城主として西有田の唐船城(とうせんじょう)を併有し、貿易や文化の発展に努力されました。
梶谷城主として西有田の唐船城(とうせんじょう)を併有し、貿易や文化の発展に努力されました。
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宗家松浦13代 丹後守盛公の墓
応仁元年(1467)没。遺体は東漸寺(とうぜんじ)〈佐世保市〉に埋葬されています。
応仁元年(1467)没。遺体は東漸寺(とうぜんじ)〈佐世保市〉に埋葬されています。
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今福神社(歳の宮)
応徳(おうとく)元年(1084)、松浦党党祖・久(ひさし)公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀(たが)の大明神の分霊を勧請(かんしょう)し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます。その折、村人が梶の葉の上に3個の餅を乗せて久公に捧げたことから、松浦家は梶の葉の家紋を使用するようになったと伝わっています。
応徳(おうとく)元年(1084)、松浦党党祖・久(ひさし)公が、ぎぎが浜上陸後、滋賀県多賀(たが)の大明神の分霊を勧請(かんしょう)し、この神社に置いて年を越したことから(歳の宮)とも呼ばれます。その折、村人が梶の葉の上に3個の餅を乗せて久公に捧げたことから、松浦家は梶の葉の家紋を使用するようになったと伝わっています。
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宗家松浦丹後守家累代の墓(旧宛陵寺跡)
久公の墓の基礎石をはじめ、累代の供養塔が20余基と歴代和尚の墓が十余基現存しており、宗家松浦家の菩提所になっています。
久公の墓の基礎石をはじめ、累代の供養塔が20余基と歴代和尚の墓が十余基現存しており、宗家松浦家の菩提所になっています。
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今宮神社
松浦党党祖、久(ひさし)公を祀る神社で、寛文(かんぶん)9年(1669)宗家松浦20代信貞公が建立されました。鳥居も信貞公が延宝(えんぽう)5年(1677)に寄進されたものです。
松浦党党祖、久(ひさし)公を祀る神社で、寛文(かんぶん)9年(1669)宗家松浦20代信貞公が建立されました。鳥居も信貞公が延宝(えんぽう)5年(1677)に寄進されたものです。
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志佐壱岐守純高公の墓
純高公は、平戸松浦26代鎮信公とともに朝鮮に出陣し、天正20年(1592)に20歳で戦死されています。公の遺骸は酒漬にされて送られ、この地に葬られました。
純高公は、平戸松浦26代鎮信公とともに朝鮮に出陣し、天正20年(1592)に20歳で戦死されています。公の遺骸は酒漬にされて送られ、この地に葬られました。
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不老山
中国の秦の始皇帝の命を受けた徐福が、不老不死の薬を探してこの山に登ったとの伝説から不老山と呼ばれています。
中国の秦の始皇帝の命を受けた徐福が、不老不死の薬を探してこの山に登ったとの伝説から不老山と呼ばれています。
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松山神社
永禄7年(1564)志佐家14代壱岐守純意(すみもと)公が、3ヵ所の権現を合祀して松山神社としました。
永禄7年(1564)志佐家14代壱岐守純意(すみもと)公が、3ヵ所の権現を合祀して松山神社としました。
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高野の六地蔵塔
高さは2.7mとかなり大型で、塔身は上下2段、4列に各12仏が彫刻されています。
高さは2.7mとかなり大型で、塔身は上下2段、4列に各12仏が彫刻されています。
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円成寺墓地の六地蔵塔
この墓地内には3基の六地蔵塔があり、手前の塔は天正期(16世紀後半)の型をしています。後ろの左側の塔の傘は非常に珍しい網代型(あじろがた)をしており、いずれも貴重なものといえます。
この墓地内には3基の六地蔵塔があり、手前の塔は天正期(16世紀後半)の型をしています。後ろの左側の塔の傘は非常に珍しい網代型(あじろがた)をしており、いずれも貴重なものといえます。
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宗家松浦3代 松浦源二郎清公の墓
清公の第2子、志佐六郎貞(さだむ)公は、志佐領を継ぐにあたり、亡父清公をこの地に葬り、若宮神社として祀られました。
清公の第2子、志佐六郎貞(さだむ)公は、志佐領を継ぐにあたり、亡父清公をこの地に葬り、若宮神社として祀られました。
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山崎の大蛇退治の伝説
娘を大蛇に呑まれた両親が池の端を切って水を川に流すと、大蛇が現れて風雨が激しくなったため、殿様に大蛇退治を頼みました。命じられた池筑後(いけちくご)は家来とともに大蛇を退治しました。
娘を大蛇に呑まれた両親が池の端を切って水を川に流すと、大蛇が現れて風雨が激しくなったため、殿様に大蛇退治を頼みました。命じられた池筑後(いけちくご)は家来とともに大蛇を退治しました。
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千人塚
星鹿の住民は、漂い着元の軍勢の屍を手厚く葬り、この地にたくさんの塚をつくりました。
星鹿の住民は、漂い着元の軍勢の屍を手厚く葬り、この地にたくさんの塚をつくりました。
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羽黒神社(はぐろじんじゃ)
神代出羽権守という人が、羽黒山大権現の分霊を奉じ、奥州卒土ヶ浜を出、ここに「羽黒大権現の社号を奉り鎮座す」とあります。
神代出羽権守という人が、羽黒山大権現の分霊を奉じ、奥州卒土ヶ浜を出、ここに「羽黒大権現の社号を奉り鎮座す」とあります。