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松浦
松浦党

源平天下分け目となった壇ノ浦の合戦では平家水軍として活躍し、鎌倉時代の蒙古襲来時の勇戦によっても知られる松浦党。
古来、大陸と海上交通の重要な拠点であった松浦地方の立地が松浦党発生の因となっています。
九州は、中国、朝鮮半島に近く、大陸側から九州へ向かう際は、朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して最短距離でたどり着くのが松浦地方です。
このあたりは天然の良港である半面、陸路は山地に閉ざされているため海上交通に熟達し、人々は本州へ向かうのと同じような感覚で大陸へと渡っていたことが考えられます。

海辺に住んで海の幸を取って暮らし、大陸の文化を取り入れて生活していた海の民の地、また海産物や牛の贄所として伊勢神宮の所領となっていた松浦にいつしか松浦党と呼ばれる武士団が形成されます。

松浦党は、松浦家の始祖、源久公以来連綿とつづく松浦家をその起こりとするものや、陸奥の豪族で前九年の役で敗れ伊予に流刑となった安倍宗任(あべのむねとう)を松浦党の発祥とする説もあります。

松浦党に属する諸家は、「一揆契諾」という合議制により結束。
もめごとを武力で解決することを禁じ領主たちが合議のうえ多数決で裁定する、女性の相続権を認めるなど、民主的な体制をとっていたことが知られています。耕作地に乏しい松浦地方は、漁業や海運業が生業の柱でした。
松浦党という武士集団は、漁をするにも交易をするにも皆が協力しなければ進まないという必要が生んだ独特の共同体だったのでしょう。