竹崎季長詞書に「御厨海上合戦図」のくだりがあります。
嵐の5日後、御厨千崎、青島にかけ元軍の残党を掃討する海上戦がありました。この結果、「死屍潮流に従い浦に入り、海の漂いて歩いて渡るべし、屍臭浦をおおって魚これがために皆死す。」という惨状になりました。星鹿には上陸した元兵との血みどろの戦いを想起させるような痕跡が残っています。血が流れまるで血のような田になった「血田」、鷹島から船橋をかけ攻め上ってきたという言い伝えから、元軍敗退乗船した地に「逃げの浦」といった地名が残されています。地元では「ぬげの浦」とも呼ばれています。
千人塚(せんにんづか)
海岸に打ち寄せられる大量の死屍は丘上の森に、星鹿半島の陸上戦での死者は、大堂の森に塚を掘り葬りました。
その後は千人塚として数か所ありましたが、現在確認できるものは1か所となっています。
逃げの浦の石塁(にげのうらのせきるい)
弘安の役の際、元軍は御厨半島に上陸するため逃げの浦に船橋をかけ上陸したといわれています。
弘安の役後、沿岸防備のため九州の北岸には石塁がどんどん築かれていきました。星鹿の石塁もそのころ築かれたものと思われますが確証がありません。星鹿城山の北岸にあった金倉の石塁とあわせ総延長千mの防塁が築かれていました。石塁の陰から長弓を放ち防戦したことがうかがえます。戦争時の採石や台風被害により石塁はほとんど崩壊しており、現在はわずかな石積みを残すのみとなっています。
星鹿ジャンガラ(ほしかじゃんがら)
星鹿地区に伝わる子どもの行事で8月15日に行われます。集落を出発した大幟、小幟を持った子どもたちが「ナーモ、ホーリ、ホッポンジャー、ホイホイ、ホイ」の掛け声をかけながら浄土寺まで道行きを行います。
途中、「つんぼうさま」の墓前で塚石を幟で叩きます。元寇の際、元軍に内通したお坊さん(つみぼうず)を叩く意からと言われています。
地名
逃浦、勢の巣、血崎、血田、矢払、追出、金倉など