歴史と文化

2012年12月20日
源介は直谷城主志佐純正の家老で、直谷城が永禄7年(1564)に平戸から攻められた際に、幼い城主の子を背負い、相神浦(あいのこうら)〈佐世保相浦〉に落ち延びました。その後、平戸城主の娘婿であった直谷城主の弟・純意(すみもと)を志佐城主にするため、平戸方のいいなりになる、純意の名で白浜館は攻められ、天正13年(1585)、源介は上意討となりました。


2012年12月20日
この地方を大干ばつが襲ったとき、村人たちは餓死寸前まで追い込まれました。その様子を見た通りがかりの上人様が、自分を犠牲にして生き埋めとなり、土中で読経を続け、その声が途絶えるとともに、大粒の雨が降ったということです。
